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Fall into your …

2007.08.29.(水) 18:05

ダイルビ。
旧雑記帳より転載。すれ違う気持ち。
結構長め? 連載中。


続き


こうしてここにいる自分を、周りの人間は一体どう思っているのだろうか、とふとルビーは考える。
会社というこの場所に明らかに不釣り合いな子供を、しかし周りの大人達は気にする風でもなく各々のなすべき事に没頭しているように見える。確かにそれはそれで自分にはありがたいのだ。自分とあの人の間にある確かな距離を他者の視線によって再確認せずにすむのだから。
そこまでつい習慣のように考えてしまい、ルビーは軽く頭を振るとふう、と一つ息をついた。
それでも。それでも、自分はここに来ずにはいられないのだ。
カナズミまで出てきていながらツワブキ社長に挨拶しないのは不義理だから、などと考えている自分に苦笑が漏れる。一体僕は誰に言い訳をしているんだ?結局自分で自分をごまかすことなどできはしないくせに。
もういい加減認めてしまえ。自分はあの人に会いたいという衝動を抑えることができないのだ、と。

そう、また思考に沈み込みそうになったところで、周囲のざわめきにルビーの意識は現実に引き戻された。いつのまにか静かだったロビーは大勢の人でごった返している。ふと視線を上げるとロビーの飾り時計が目に入った。11時50分。なるほど、ではこの人たちは昼食を取りに降りてきた社員たちなのだろう。

ああ、今日は運がいい。自然と頬が緩むのが自分で分かった。
ダイゴはポケモンバトルの頂点に立つチャンピオンであったのと同時にこのデボンコーポレーションの副社長でもある。未だに多方面からひっぱりだこのその多忙さは、まだ子供の域を出ないルビーには想像もつかない。会いに来ると彼はいつでも笑顔で迎えてくれたが、その好意に甘え過ぎて彼の邪魔をするわけにはいかなかった。いつもならば、出されたお茶を一杯飲む間だけ彼の側にいることを自分に許しているのだが……今は昼休みだ。きっともっと一緒にいられるに違いない。もしかすると彼と一緒に食事を取ることも出来るかも知れない。
これから訪れるであろう至福の時間を思い、ルビーは足取りも軽く受け付けカウンターへと向かった。

「………え?」
一瞬、何を言われたのか判らなかった。動揺のあまり返答することも出来ず立ちつくすルビーに向かい、受付カウンターに座るその女性は再び同じ言葉を投げかけてきた。
「当社の副社長は現在多忙ですので、お約束のある方以外にはお会いできません。アポイントはいただいておりますでしょうか?」
「あ、その、約束は……」
こんなことを言われたのは初めてだった。
今までは名前を告げて彼に会いたい旨を伝えると、直ぐに取り次いで貰えたのに。
「約束、はしていないんですけど……取り次ぐだけでも、お願いできないんですか?」
思わず縋るように発した言葉に、しかしやんわりと微笑んだまま彼女は緩く首を振って見せた。
「社則ですから。」

期待が大きかっただけに、それが叶えられなかった失望も大きかったらしい。
どうしてもこのまま帰る気にはなれなくて、ルビーはそのままふらふらとロビーに設置されたソファの一つに座り込んだ。
約束、約束。そんな約束、簡単に取り付けられたらこんなところまでわざわざやってきたりはしないのに。ルビーの手は無意識に服の上からポケットの中のポケギアをぎゅっと握りしめていた。
本当は。彼の声だけで我慢しようと思っていたのだ。
彼の仕事の邪魔をする訳にはいかないから、帰宅する頃を待ってポケギアをかけるという行為は、もう最近のルビーの日課の様になっていた。でも、ずっと圏外。
多分、忙しい彼にはこんな子供に構っている時間はないのだろうけれど、それでもどうしても今日だけは彼の声を聞きたかった。
だからこそ、意を決してここまでやってきたのに。

今までも月に1、2回、いろんな口実を作っては彼の声が聞きたくて電話をかけていた。進化するために必要な石のこと、鋼タイプのポケモンの育て方、バトルのアドバイス、エトセトラ、etc。
決して長い電話ではなかったけれど、彼の真摯な、優しい言葉が聞けるその数分間は確かにルビーを充たしてくれていたのだ。
その電話が繋がらなくなったのはいつからだったろうか。

彼の仕事が忙しいのは良く分かっていたし、師匠からも休日はすっかり洞窟に引き籠もりだと聞いていたからポケギアが圏外でも今まで気にしたことなんてなかったけれど。

取り次いで貰えない受付。
繋がらないポケギア。
……もしかして、これは。

「………僕、嫌われちゃった……?」

思い至った結論に、ルビーはただ呆然と呟いた。
がっくりと肩を落とし、膝に両肘を付いて頭を抱える。
何が、何が悪かったんだろう?
何度もかける電話が五月蠅かった?それとも、時々こうして仕事のさなかにふらりと邪魔しにこられるのが煩わしかった?でも、この間最後に会った時、あの人は「またね」と優しく笑って手を振ってくれたのに。
ああ、どうしよう、泣きそうだ。このまま理由も聞けないままに彼と会えなくなってしまうんだろうか。
こみ上げてくる物を必死で飲み下そうと歯を食いしばった瞬間、耳に飛びこんできた名前にルビーはびくりと背を震わせた。
「ダイゴ様、今日はやっぱりいらっしゃるって!」
顔を手で覆ったまま、声の主をそっと盗み見ると、そこには数人の若い女性達がロビーのテーブルを囲んでいた。目を輝かせて熱心に憧れの上司について語り合う彼女達は、どうやらデボンに勤めるOL達の様だ。ああ、そうだ、彼に会いたいのは自分だけじゃない。あんな地位も知性も容姿も持ち合わせているできすぎた人を、彼の周りにいる女の人たちが見逃すわけがない。そう、彼は、凄くもてるのだ。そんなの、今更彼女たちを見なくたって自分は知っていた筈なのに。
顔を覆った手をぎゅ、っと握りしめ、ルビーは深く顔を伏せた。子供の自分では彼には釣り合わないことくらい、自分は良く知っていた居たはずだった。そもそも、彼はルビーを自分と対等だなどと思ったこともないだろう。もしも、もう少しだけ早く自分が産まれていたら、そうしたら彼は自分を対等に扱ってくれただろうか?逢えない理由を直接教えてくれただろうか?
そんなことを思って、きゅっと眉を寄せたルビーの耳に再び飛びこんできた言葉は、今度こそ本格的に彼の動きを止めた。

「でも、聞いた?ダイゴ様、恋人ができたんですって」


*****


彼女が彼に気付いたのはまったくの偶然だった。

デボンコーポレーション副社長の優秀なる秘書を自認する彼女は、常ならば上司が出社するよりも早く出社し、彼のスケジュールをチェックし、資料を整え、その日一日の彼の勤務を補佐し、事務をこなし、彼の退社を見届けて漸く一日の仕事を終えるのである。(ただ、困ったことにこの副社長は往々にして自分に私生活が存在することを忘却する傾向にあるため、彼を置いて退社する日が多いことだけが彼女の秘書としての矜持に触れるのだが。)
そういうわけで、彼女の一日は早朝から深夜まで主に社屋の奥に籠もりきりになることが多いのだが、今日はたまたまそうではなかったのである。
溜まりに溜まった書類に奮闘する上司の替わりに新製品発表会のプレゼンに出席するため、その日彼女は朝からミナモシティに赴いていたのだ。十分な手応えと資料を手にした彼女は、急いだ甲斐もあってなんとか昼休みの間に本社に帰社することができた。きっと彼女の困った上司はまた食事もとらずに書類と格闘しているに違いない。どういう風の吹き回しかこのところ毎日定時で帰ろうと奮闘している彼は、彼女が無理に机の前から追い払わなければ休憩どころか食事もとらない有様なのだ。彼の体調を維持するためにも急いで副社長室から追い出して食事をとらせなくては。
そんな事を考えながらロビーを足早に横切ろうとした彼女の目に、見覚えある帽子がちらりと映ったのは本当にまったくの偶然だった。

「ああ、彼は……」
改めて視線を向けた先に、思った通りの人物をみつけ、彼女はそっと微笑んだ。
特徴ある帽子を被った、その帽子以上に特徴ある紅い瞳の少年。
きっとまた副社長に会いに来たのに違いない。
それならば、と優しい視線をもう一度だけ少年に送り、彼女はエレベーターに向かって急いでいた歩調を緩めた。
彼が会いに来たのであれば、いつも彼を気遣っている副社長のことだ。彼と会っている間だけは休憩なさったにちがいない。多分昼食も2人できちんと取ってくださったことだろう。
安堵を覚え、降りてくるエレベーターをのんびりと待ちながら、彼女は今日の予定を変更するために素早く脳裏でスケジュールをチェックし直していた。
彼が訪れた後の上司はいつもことのほか機嫌がいい。通常ならば嫌そうな顔をして後回しにする人事関係のレポートなども上機嫌で片づけてしまうほどなのだ。
ちょうど良い、確か製品製造ラインのメンテナンスがらみでやっかいな申請が工場から上がってきていたはずだ。ずっと後回しになりそうだったあれをなんとか今日中に片づけていただこう。
懸案の事項が一つ片づく目処が立ち、彼女はやってきたエレベーターへと上機嫌で乗り込んだ。

「………おかえり。」
室内に入った彼女を迎えたのは、想像していたのとは正反対のあまりにも不機嫌な声音だった。
「……それで?向こうはどんな具合だったのかな?」
予想とのあまりのギャップに思わずひるんだ彼女に気付くことなく、デボンの優秀な副社長は向き合った書類から視線を上げることもなく無愛想に質問を重ねた。
何かがおかしい。彼が会いに来たというのに、こんなに不機嫌な上司など彼女は見たのは初めてだった。……喧嘩でもなさったのかしら?と、疑問に思いながらも、表情には出さず、彼女は彼の質問に即座に答えた。
「全て順調にすすんでいます。会場の準備の方もぬかりなく整っています。周辺住民から取った使用感のアンケートの回答もどれも好評なものばかりでした。当日の発表会ではその中でも反響の多かったポイントを特にピックアップしてプッシュするように指示をして参りました。アンケートに若干あった不満点については開発部の方へ改善案がないか検討するよう申し送りをしました。詳細についてはこちらの資料にまとめてあります。」
彼女が鞄から持ち出した分厚い書類の束に、上司はちらりと視線を送ると、いいから、と軽く手を振って押しとどめた。
「采配については君の判断を信用してるよ。問題点がなかったんならそれでいい。その資料の内容も含めて後で簡潔なレポートにまとめてくれる?悪いけど今ちょっとそんなもの読む気分になれなくてね」
いかにもうんざりとぼやく上司に、そうでしょうね、と苦笑しながら彼女はあいづちをうった。彼の机の上にはそれこそ山のように書類の束が積み上げられている。確かにこれに朝からずっと目を通していたのならば、今はもう書類なんて見たくもないといったところなのだろう。
「帰った早々悪いけどちょっとコーヒー淹れて貰えるかな?」
さすがに疲れた、と伸びをする上司に、はい、と答えた彼女はすぐに副社長室に付設された専用の給湯室へと向かった。
「……まったくあの人は……」
給湯室を見回して思わず溜息がこぼれたのは仕方ないことだと思いたい。
給湯室は昨日彼女が帰宅前に片づけたそのままの美しい状態だったのだ。裏を返せば彼は朝から今に至るまで水すら飲まずに勤務を続けていたと言うことになる。まったく、ちょっと目を離すとすぐこれだ。少しは体調維持にも気を配っていただかないと、と、コーヒーを淹れながら考えていた彼女は、そこで妙なことに気が付いた。
「まあ、いやだ、副社長ったらあの子が来たのにお茶も出さなかったんですか?!」
「え?誰が来たって?」
思わず声をあげた彼女に返ってきたのは不思議そうな上司の視線で。
「誰って、ほら、時々お見えになる、紅い眼の彼ですよ。」
「紅い眼って……ルビー君? いや?今日は誰も面会にはこなかったけど?」
コーヒーを受け取りながら不思議そうに眼をまたたかせる上司に彼女も不思議そうに首をかしげた。
「変ですわね?さっきロビーでお見かけしたからてっきり副社長に会いにいらしたんだと思ってたんですけど。」
「え、本当に?!じゃあ父さんに用事があって来てたのかな? いやだな、ここまで来たのなら声をかけてくれたら良かったのに……」
途端に目を輝かせて身を乗り出す副社長に、こんな所はまるで子供のようだわ、とクスクス笑いながら有能な副社長秘書は内線を取り上げた。
「では、受付に彼が何でいらしたのか聞いてみましょうね」

最悪。

その二文字が彼女の脳裏に浮かんだとしてもそれは誰も責められるものではないはずである。むしろ、今舌打ちしなかった自分を誰かに褒めて欲しい、彼女は真剣にそう思った。
後ろで期待に目を輝かせている上司にこの事実を伝えるのか?自分が?
冗談ではない、勘弁して欲しい、本当に。
溜息をつきたくなる衝動をなんとか押さえ込み、彼女は重くなる口をなんとか開いた。
「今受付に問い合わせたんですけど……」
「けど?」
「それが……今日は受付の担当が新人で」
言い淀む彼女に、それで?と彼は視線で先を促してくる。この先の反応を思うと物凄く言いたくないのだけれど、残念ながら今ここにいるのは彼以外には自分只一人。助けは誰からも期待できない。諦めて一つ息を吸って、彼女は一息に彼に事実を告げた。
「ルビー様が副社長に面会にいらしたのですが、アポイントがなかったのでお断りしてお帰りいただいたそうです。」
明るかった彼の表情が、一気に鉛を飲んだようなものに変わるのがハッキリと見て取れた。
一瞬動きを止めた彼ががばり、と椅子から立ち上がる。
「どうして?!彼が来たら、僕でも父さんでも最優先で繋げって言ってあるはずだろう?!」
「ですから担当が新人で」
まさかあんな少年がVIP待遇だなどとは思わなかったのだろう。それは分かる。分かるのだが。
今度こそ溜息をつきながら彼女は再び現実を彼に提示した。
「申し送り事項にきちんと目を通していなかったようです。ルビー様から伝言をいただいておりますが」
「なんだって?!」
期待に少しだけ表情を明るくした上司に、申し訳なく思いながら彼女は続けた。
「……お仕事頑張ってください、だそうです」
再びどんよりと雰囲気を重くした彼が、弾かれたようにロッカーに向かうのを見守りながら、彼女は一応言葉を続けた。
「受付の責任者から謝罪の申し入れがありますがいかがしましょう?」
「いらない。それより、君が帰って来た時まだルビー君はロビーにいたんだよね?」
はい、という彼女の返事を聞くと、彼は手早く身支度を整え、足早に出口に向かった。
「ちょっと出てくる。後のことは任せたよ」
こうなるのではないかと思ってはいたのだ。これで、もう今日は一日仕事にならないに違いない。脳内で今日の受付担当に向かって盛大に呪詛の言葉を吐きながら、それでも彼女は大人しく上司の背中を見送った。
「いってらっしゃいませ」


*****


初夏の日差しは強い。けれど、池の上にかかったこの橋の上には水の匂いを纏った心地よい冷たさの風が吹き、暑さを感じることはなかった。水面に映る空は抜けるように青く、振り仰げばその空の高さの清々しさが心地よい。
……筈なのに。
目で捕らえ、肌で感じているはずの感覚がどうしても実感を伴わない。渡る風に揺られ日差しに水面が煌めくいつもなら目を引いて止まないであろうその光景も、今のルビーにはなんの感慨ももたらしてはくれなかった。
諦めて橋から降りると、通行人の邪魔にならないよう道路から少し離れた池の畔にしゃがみこむ。そして視線を足下に落とすと、ルビーはもう今日何度目か分からなくなった溜息をまた一つ零した。

ダイゴ様、恋人ができたんですって。
最近毎日定時でお帰りになってるじゃない?
あんまり上機嫌だから受付の子が楽しそうですね、デートですか?って聞いてみたら。
うん、好きな子ができたんだ、っておっしゃったんですって!

先ほどロビーで聞こえてきた女子社員達の会話がまた思い出され、眉を寄せるときつく唇を噛みしめた。
覚悟は出来ていたはずだったのに。
だいたい、あの人はもういい歳をした大人なのだ。かっこよくて、強くて、切れ者で、地位も財産もあって。あんな人にあの歳になるまで恋人の一人もいなかったことの方がむしろ驚くべきことなのだろうと思う。多分そんなことになったのは、チャンピオンとしての多忙さだったり、ついこの間起きたホウエン崩壊の危機を事前に察知した者としての責任感だったり、そういったモロモロの環境が彼を恋愛という場から遠ざけていたからに過ぎなかったのだろう。
全てが終わった今、平穏な日常を手に入れた彼が、誰か心奪われる人を見つけたとしても、それはまったくおかしなことではない。むしろ、そうなる方が自然というものなのだ。
そこまでぼんやりと考えてズキリと疼くように痛んだ胸に、ルビーは無意識の内に服の胸元を握りしめた。
結局の所、自分は頭で知っていただけなのだろう。
あの人が誰から見ても魅力的な人物だという事実を知っていた。あの人が誰かを好きになると言う可能性も知っていた。でも、知っていただけで、そうなることがどういう事なのか分かってはいなかったのだ。いや、寧ろ自分はその可能性を分かりたくなかったのかもしれない。
あり得ないと思っていながらいつか彼が自分の手を取ってくれることを願っていたんだ、僕は。
明確な輪郭を現した独りよがりな自分の願望に思わず苦い笑いがこみ上げる。
まったく、美しくないったら!
俯く視線の先にある歪んだ笑顔に向かい、衝動的に傍らの小石を拾って投げつける。
ボチャン。
間の抜けた音と共に水面は大きく揺らいで乱れ、そこに写っていた醜悪な顔も霧散した。
それを見届けまた一つ溜息をつくと、ルビーは空を仰ぎゆっくりと目を閉じた。

そろそろ、潮時なのかもしれない。

彼に対してそういう気持ちを抱えていることを認めたくなくて、今まで自分にいろんな言い訳をしてきたものの、いつかは己の中にあるこの絶望的な願望に終止符を打たねばならないことを、ルビーはよく理解していた。おそらく、そうしなくてはならないことを理解していたからこそ、今まで素直に自分の気持ちを認められないでいたのだと思う。
でも、そろそろ自分を誤魔化すのも限界だった。
冷静になった今、ルビーはあのOL達の話していたことが事実であるとは限らないことも理解していた。あのダイゴのことだ、「好きな子」というのが何処かの洞窟の奥にある新種の石だったとしても決しておかしくはない。(いや、むしろその可能性の方が遙かに高いとルビーは判断していた)
問題は彼女たちのうわさ話の内容ではない。
その話を聞いた時の自分の動揺具合の方だった。
あの話が耳に飛びこんできた時、本気で意識が真っ白になった気がした。それが事実かどうか確かめたわけでもないのにだ。胸の中心が何かに押さえつけられるようで、その重苦しさに呼吸も上手くできなくて。そして、その時生じた不安は、断つことの出来ない糸のようになって己にまとわりつき、冷静になった今もずっとこの胸の内を締めつけ続けている。
彼を知る人から聞いたわけでも、ましてや本人から告げられたわけでもない、信憑性も甚だ妖しいうわさ話をきいただけでこの有様だ。これではもし彼が本当に彼女でも連れてきた日には自分はどうなってしまうかわかったものではない。
その時を想像してみようとして、しかしそれすらも恐ろしくてルビーは両腕で身体を抱えるようにしてふるりとその身を震わせた。
確かに自分は彼の関心を惹きたいといつも思っていたけれど、そんな形で醜態を晒し、彼の目を引いてしまうことだけは絶対にごめんだった。
だからこそ。まだ冷静でいられる今の内にこの感情に決着をつけてしまわなくては。
そう覚悟を決めると、ルビーは一つ深呼吸をしてから弾みをつけて勢いよく立ち上がった。

プルルルルルルルル!

通りの良い軽やかな電子音があたりに鳴り響いたのはまさにその瞬間だった。
完全に不意を付かれ、思わずつんのめりそうなったルビーは慌てて足を踏みしめ体勢を立て直した。いくら暑くなってきたとはいえ、ここで頭から池に突っ込むのはさすがにちょっといただけない。
危機回避して、ほっと胸をなで下ろしたところで、未だに鳴りやまない電子音の発生源が自分のポケギアだということに気づき、ルビーは慌ててポケットから五月蠅く自分を呼び立てるものを取り出した。着信画面を確認するのも忘れて通話スイッチを押す。
「はい!ルビーです!」
『もしもし、ダイゴだけど。ルビー君今どこにいるの?』
よかった繋がった、という小さな呟きと共に、今の今まで思いをはせていた人の柔らかな声が耳に届き、ルビーは思わずポケギアを取り落としそうになった。
「え、あ、104番道路です……カナズミから出て直ぐの池の前に」
『わかった。直ぐ行くからそこで待ってて』
それだけ告げると返事も待たずに切れてしまったポケギアを、ルビーは一瞬呆然と見つめ、そしてはたと我に返って小さく舌打ちした。
Shit!ボクのバカ、これから送り火山に登るところですとでも言えばよかったのに!
反射的にそう考えて、いや、やはりそれはまずい、とルビーは緩く頭を振ってその考えをうち消した。万が一にもあの人がそれを本気にして送り火山くんだりまで行ってしまったら!あんな多忙な人にそんな無駄足を踏ませてしまっては洒落にならない。
それに。
どんなに意地を張ってみたところで、やはり自分は嬉しいのだ。あの忙しい人がわざわざ時間を割いてまで、自らすすんで自分に会いに来てくれると言うことが。
そしてこみ上げてくる安堵感。
顔も見たくない程嫌う相手に連絡を取ってまで会いに来るバカはまずいない。ポケギアが繋がらなかったのも、今日取り次いで貰えなかったのも、自分が彼に嫌われたからではなかったらしい。おそらく、純粋にただ忙しかっただけなのだろう。本当に良かった。

「ルビー君、お待たせ!」

軽く自らの思考に沈んでいたルビーが己の名を呼ぶ声に驚いてはっと顔を上げると、ダイゴはもうその表情がはっきり視認出来るほどの距離までやってきていた。
いつも通りキッチリスーツを着込んだその額には軽く汗が浮いている。鍛えている人だから息を切らす様なことはないけれど、頬が軽く上気して見えるのはやはりこの暑さの中ずっと走ってきたせいなのだろう。自分に会うために。そう思うと、ルビーは歓びと理不尽な怒りとで胸の中を撹拌されるような気がした。
(ああ、もう、この人は!そんなだから僕は期待してしまうんだ……!)
感情をぶちまけてしまいたくなる衝動をぐっと飲み込み、ルビーはダイゴに挨拶を返した。
「こんにちはダイゴさん。お久しぶりです。……そんなに急いで、どうしたんですか?」
「うん、久しぶり。ああ、うちの秘書がロビーでルビー君を見たって言うから。ホラ、君フットワーク軽いから急がないとすぐいなくなっちゃうような気がしてさ」
「待ってろって言われてるのにどこかに行ったりはしませんよ、さすがに」
そんなに自分は落ち着きがない印象なのだろうか、とルビーがちょっと呆れてクレームをつけると、ダイゴはそうだね、ごめんね、と困ったような笑顔で応えた。そして、はたと思い出したように付け加える。
「そうだ、うちの受付が失礼したみたいですまなかった。丁度新人で、連絡不行き届きだったらしいだ。ごめんね?」
そう言うとダイゴは申し訳なさそうに眉を寄せて軽く頭を下げ、目の前の少年の顔を覗き込むようにして目線を合わせてきた。ルビーは思わず視線を横に流した。
「いいですよ、ダイゴさんのせいじゃありませんから気にしないで下さい。それに、ああやって押し掛けたらお仕事の邪魔になっちゃうのは本当ですし」
自分に合わされてずれることのない琥珀の視線がどうしても気になって落ち着かない。ルビーはまるで言い訳でもしてるみたいだ、とどこか上の空で思いつつ、気持ちを誤魔化すように腰のあたりで組んだ両手の指先を組み替えながら口早に返事を返した。
「そんなことないよ」
そんなルビーの言葉を聞いて、ダイゴは少し目を伏せて緩く首を振って見せた。
「このところずっと連絡も取れなかったし、僕も丁度会いたかったんだ。だからルビー君はそんなことは気にしないで遠慮なく会いに来てくれていいんだよ。それに、どうせ伝言残すんなら恨み言の一つでも残して置いて欲しいな。”お仕事頑張って下さい”はあんまりだと思うよ」
そう言って肩をすくめてちょっと笑ってみせる男を、ルビーは一瞬本気で殴りたくなった。
(それってどんな口説き文句だよまったく!)
天然なのも大概にして欲しいと真剣に思う。伝言で恨み言なんて、恋人でもない人間が残したって鬱陶しいだけだというちょっと考えれば誰にだってわかるようなことがどうしてこの人には分からないんだろう。そもそも、只のトレーナー仲間でしかない自分に、”お仕事頑張って下さい”以外の一体どんな伝言を期待しているのだろうか。理解できないにも程がある。
「そういうことは恋人にでも言ってあげてください。僕なんか口説いてどうするんですか」
思わず溜息と共にこぼれた台詞に、ダイゴは、え、と驚いたように目をまたたかせる。
「あ、いや、別に口説いてるつもりはないんだけど……」
「当たり前です。本気で僕なんか口説いてたら、ダイゴさん彼女に捨てられますよ。……噂になってましたよ、毎日楽しそうにデートに出かけてるって」
「……いや、別に彼女はいないんだけどね……参ったな、そんな噂になってるのか……石を掘りに行ってただけなんだけど」
本当に彼女なんていないから気にしちゃいやだよ、と念を押してくる男に、なに僕なんかに言い訳してるんですか、とルビーが呆れたように返すと、そうだね、何言ってるんだろうね、と男はその淡い色の髪をくしゃり、とかき混ぜて笑った。
頭をよぎる嫌な考えにルビーはわずかに眉を寄せる。もしかしなくても、この人は誰彼構わずこの調子なんだろうか。もしそうなら彼の周りにいる女子社員達は本当に気の毒すぎる。こんな人にこんな態度で応対されたら勘違いしない方がおかしい。絶対恋に落ちるに決まってる。そう、自分みたいに。
(ああ、なんかだんだん腹が立ってきたぞ)
八つ当たりなのは充分承知の上だったが、ルビーにとっては好都合だった。今なら、勢いに任せて決着をつけられそうだ。
「ダイゴさん」
咄嗟に腹をくくると、ルビーはきちんとダイゴに向き直って視線をあげた。
ん?と応えて自分を見つめてくるダイゴの笑顔は相変わらず優しくて、そう言えば自分はバトル以外ではこの人の笑顔しか知らない気がする、とルビーは少し寂しくなった。
トレーナーとしては認めてくれているようだけれど、それ以外ではやっぱり自分は子供と思われているのだろうか。
「今日は、僕、お話があるんです」
「相談じゃなくて? 珍しいな、なんだい?」
自分の緊張した雰囲気が伝わったのか、ダイゴの柔らかな視線が真面目な色合いを帯びたのが分かった。子供の言葉と聞き流したりせず、こうしてきちんと向き合ってくれるこの人の真摯なところがルビーは好きだった。でも、今はその感情に流される訳にはいかないのだ。
「今までいろいろお世話になりました」
「……えっ?ルビー君、引っ越しでもするの?」
でもセンリさんに転任辞令なんかでてなかったよね?と目を丸くして問いかけるダイゴに、ルビーは違います、と左右に頭を振った。
「もう先輩に甘えるのは卒業しようと思うんです。ダイゴさんには電話したり会社まで押し掛けちゃったり、いろいろご迷惑かけてばっかりで、ちゃんとお礼も出来ないままなのは本当に申し訳ないと思うんですけど……」
口が渇く。声が喉に絡んで掠れそうになる。これを言ってしまったらもう後戻りはできない。でも、今、言わなくては。ルビーは自制心を総動員して、最後の一言を言いたくないと駄々をこねる己の心をねじ伏せた。普通に、普通に。ダイゴに不審に思われてはいけない。ルビーはしっかりとダイゴの目を見つめ、一気に残りの言葉を吐きだした。
「もう、会いません」

ダイゴはそれを聞いてもその表情を崩すことなく、そう、頑張ってね、といつものように柔らかく笑って応え、二人の繋がりはそこで終わりになる……筈だった。少なくともルビーはそれ以外の可能性など考えもしなかったのだが。現実はルビーの考えた通りにはならなかったのだ。

「……ルビー君、それ、どういうこと?」
ルビーの言葉に一瞬動きを止めたダイゴは、さっと顔色を変えた。そのまま一歩踏み出してルビーに詰め寄るようにして問いつめる。正直、このダイゴの反応はルビーの予想外のものだった。思いも寄らぬダイゴの勢いに思わず後ずさりそうになり、すんでの所で踏みとどまる。だめだ、勢いに飲まれちゃいけない。決意を新たにして半ば睨むようにダイゴの視線を受け止めて見つめ返す。
「もう、ダイゴさんに会うのは辞めるってことです。ダイゴさんだってお忙しいんですから、いつまでも僕みたいな子供の相手はしてられないでしょう?ポケモン協会の方も落ち着いてきましたし、ダイゴさんもチャンピオンは引退されたんだし、そろそろ潮時だと思うんですよね」
「なんの潮時だって言うんだい。それに、何に時間を割くかは僕が決めることだ。僕は君とこうして会うことに充分価値を見いだしてるし、君もそうだから今まで僕に会いに来てくれてたんじゃないのかい?」
「それは……そう、ですけど……」
この人が、自分に会うことに価値を認めてくれている。思いもよらなかったダイゴの言葉に思わずルビーは目頭が熱くなり、慌ててこみ上げてくるそれを必死で飲み下した。嬉しい、けれど、もう自分はそれだけでは。
「………だめなんです」
「……えっ?」
それだけではもう足りない。もっと、もっと。
「僕は……このままじゃだめなんです!」
優しさを知れば知るほどどうしても目の前のこの人が欲しくなる。その手に、腕に、触れたくなる、触れられたくなる。今日、ダイゴに会ってはっきり分かった。ルビーの気持ちはもう既に充分限界だったのだ。これ以上、この人に手を伸ばさずにいることは、ルビーにはもうできなかった。
気持ちを振り切るように大きくかぶりを振るルビーの両肩を、まるで逃がしはしないとでもいうかのようにダイゴの両手がしっかりと掴んだ。掌から伝わる熱に、ルビーは俯いたままビクリと身体を震わせたが、それに気付いた風もなく、ダイゴは腰を落とし、目線をルビーにあわせ、真剣な顔で問いかけてきた。
「何がだめなんだい?先輩に甘えるって、それは違うだろう?僕は今まで君を甘やかしたと思ったことはないし、アドバイスを貰うことと相手に甘えて依存することは全く別のことだよ。もし、君がもう先輩のアドバイスなど必要ないと思っているんなら、むしろその方が傲慢というものだ。第一、ミクリはどうなる?あいつは君の師匠なんだろう?」
「あなたは師匠とは違うんです!」
反射的にこぼれたこの一言に、なぜかダイゴは凍り付いたように動きを止めた。
万事において完璧に近い彼がこんな隙をつくるのは珍しい。自分の言葉の何が彼にそんなに衝撃を与えたのか分からなかったが、そんなことに構っている場合ではない。ルビーは素早く彼の両手の拘束を振りほどくと、飛びすさって距離を取った。
「とにかく、もう、決めたんです。今までありがとうございました!」
彼に向かって勢いよく深く一礼し、そのままきびすを返してダッシュで橋を駆け抜ける。
「あっ、ちょっ、ルビー君待っ……!!」
我に返ったらしい彼の声が後を追って来たが、ルビーは気付かぬ振りで耳を塞ぎ、ランニングシューズのスイッチも入れて全速力でトウカの森に逃げ込んだ。
(ごめんなさい、ごめんなさい……!)
自分が思っていたよりもずっと、ダイゴは自分との繋がりを大事にしてくれていた。それなのに、自分が今とったこの態度は明らかに彼に対する裏切りだったろう。いくら寛容な彼だってさすがに愛想を尽かしたに違いない。そう、これで全部終わってしまった。
太い木の幹にぶつかりそうになって、ルビーはもつれそうになる足を漸く止めた。ふと気付くと日差しすら拒むかのように鬱蒼と木々が生い茂る薄暗い場所にルビーはぽつりと一人で立っていた。人の気配は、既になかった。
「……ごめん、なさい……」
声に出すと、急に目の前がぼやけた。
「それでも……っ……僕は……っ」
どうしても、今のままではいられなかったのだ。
「……あなたが………っ」
ぽたぽたと堕ちる雫が足下の地面に静かに吸い込まれていく。
「ダイゴ、さん……っ」
そのままその場に蹲ると、たった今自分が断ち切ってきたものを想って、ルビーは一人ひっそりと泣いた。


*****